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羊のいる風景(家族でのピクニックにて)2018年
 4月16日、続く18日は、入籍結婚記念日です。ちまたでは私たちの歩んできたこの年月を記念して、陶器婚式と呼ぶようです。先日は家族でピクニックに出かけ、心地良い春の日の中、楽しいひと時を過ごすことができました。何より我が子の喜ぶ姿が見られ、とてもうれしく思いました。

 私は小さいころ、自然の中で遊ぶのが好きでした。その泥遊びの延長で、粘土遊びも好きでした。それが大人になり、その延長で陶芸が今でも好きです。粘土を自在に成形し、動物などの陶器のインテリア作品を造ったりします。

  私の賜物(たまもの)とは何でしょう。賜物のことをタラント(タレント)と言って、才能のことを意味する場合があります。しかし賜物は、神さまが一人一人に与えてくださる賜りもの(たまわりもの)と私は信じていますから、才能だけではないと思います。私は絵画や陶芸が小さいころから好きでしたが、果たしてそれが私の賜物(タラント)でしょうか。まだ何か違うような気がします。

 私の賜物は、神さまからまだ与えられておらず、これから新たに啓くタラントのような気がしています。
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ブルーベリー苗木の新しい葉
 4月5日から、清明(せいめい)に入っています。1年を24の季節に分けた「二十四節気」(にじゅうしせっき)の中で、とても心地良く、一番好きな季節です。明るく清かな(さやかな)時になりました。自宅の庭で育てているブルーベリーの苗木も、盛んに春の新しい葉を芽吹かせています。

 我が子も春の植物たちの勢いに負けず劣らず、食欲旺盛でとても元気です。この食欲の源は、なんと言っても母親の手作り料理に違いありません。出来合いの市販品を我が子が食べると、時々吐き出すことがあります。小さい子のこの本能的な動作に、こちら大人の方が学ばされる時があります。

 思えばこういう私も、この子の母親が私の体調に合わせた手作りの料理を、私に食べさせようと決心した時から、今日に至っています。今は何でも食べられるまでに、ずいぶんと体調が回復しました。私が命長らえているのは、彼女のおかげに他なりません。

 もう一つ私には、楽しい食事が増えました。それは私が毎日、聖書を食べているからです。不思議な表現ですが、聖書の御言葉(みことば)を読み、その御言葉が自分に吸収され、血肉となるという意味で、聖書を食べるという言い方をします。この命の糧(かて)が、とてもおいしいのです。この2種類のおいしい食事がある限り、私の限りある人生には一片の悔いも無いことでしょう。
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春分のころの若葉
 今日3月21日から、春分(しゅんぶん)に入ります。春の光と春の雨を受け、植物たちが新しくされていくのを見ています。我が家の庭で育つブルーベリーの幼い苗木たちも、小さな若葉を芽吹かせています。春を分かつ時は、昼と夜の長さも半分に分かちます。夜明けも夕暮れも、随分と明るさが感じられるようになってきました。

 最近は晴れた日に、自立歩行ができるようになった我が子とよく外に出ます。我が子も、春の外出をとても喜んでいます。この子の笑顔にいやされているのは私なので、私の方が遊んでもらっているという感じです。一日の終わりに、この子の寝顔を見ていて思うことは、私はこの子にきちんと向き合うことが今日はできただろうか、ということです。この子の目には私が映っているのに、私の目にはこの子がきちんと映っていただろうか、と思い返します。

 「雨を見たかい」という歌が好きです。CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)の歌です。私はかつて、この歌詞にあるように、晴れた日に降る雨を見たことがあります。それは私の好きな海で泳いでいて、偶然出会ったあまりにも美しい光景でしたので、今でも目に焼き付いています。

 「いい一日だった」の積み重ねが、「いい人生だった」だと思います。家族と過ごす時間を大切にすることは、私にとって晴れた日に降る雨の光景のようなものです。「雨を見たかい」と自問しながら、悔いを残さない人生を過ごしていきたいと思っています。
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ツバキのつぼみ
 3月5日から、啓蟄(けいちつ)に入っています。今年は寒い日が続き、ツバキの花もまだまだつぼみを残しています。なんとなく冬眠していた者たちも、巣籠もり(すごもり)を啓いて(ひらいて)出てくるのが遅いような気がします。今年の自然界は、そういう年なのかもしれません。

 先日は仕事の帰り道に、思いがけず見事な満月に出会い、歩みをとめて見とれていました。今月は、月末にもう一度満月が巡ってきます。人間の作ったカレンダーは、不完全ですから、例えば私たちの用いている太陽暦は、4年に一度うるう年を入れて修正します。それでも星の動きを正確にとらえきれないため、100年に一度さらに修正を加えます。しかし、それでも人間のカレンダーは完全ではありませんから、さらなる修正を必要とします。

 ところが、完全なカレンダーが存在します。私たちはそれを見ることができます。その完全なカレンダーとは、月の満ち欠けです。大昔から、一年13カ月の月齢カレンダーを用いてきました。月はただ満ち欠けを繰り返しているのではなく、地球上の植物に影響を及ぼし、潮(しお)の満ち引きに影響を及ぼしています。農業や漁業などでは、古代から月齢は欠かせない暦(こよみ)でした。

 また、月の光は太陽の光の反射で、加えて地球の自転が月の輝く形を決めます。この完璧なかかわり合いを造り出したのは、やはり神さまであり、私はその恵みへの感謝に思いが至ります。奇跡は、日常の中にはっきりと現れ、私たちは日々それを体験する恵みを与えられています。
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庭に咲いた花
 2月19日から、雨水(うすい)に入っています。雪が雨に、氷が水に変えられる季節。固まっていたものを溶かす、神さまの御業(みわざ)です。また、水は空気よりも重いのですが、なぜか雨は空(そら)の上に蓄えられています。しかもその仕組みは、創造の始めからデザインされていたものです。人の頑なな(かたくなな)心さえ打ち解けさせることができるかと思えば、人の世の常識はいとも簡単に覆されることがあり、その御前(みまえ)に人智ははるかに及びもしません。

 「花の美しさ」というのは、うそです。それは言葉だけでできていて、実体がなく存在しません。一方「美しい花」は一つ一つに個性があり、実体を持って現れ、過ぎ去ります。小林秀雄という人が「美しい花はある。花の美しさというものはない。」と言った、まさにそのことです。

 かつて「律法」(りっぽう)というユダヤ民族の規範がありました。ところが時が経つにつれ、人のために存在するはずの「律法」は、神さまから授けられたころの最初の御心(みこころ)を離れ、頑なに守るための「律法」となり、実体のないものへと姿を変えていきました。

 「律法」を今の私たちに置き換えて考えてみましょう。二度となく、またかけがえのない今の私たちの日常を、いつも見失わないようにしたいと思っています。私にとって、それは家族と過ごす時間です。