Img_ccd9808f08988ede61aac72ac7e67fc7
果実がふくらむ庭の柿の木
 今日9月23日から、秋分(しゅうぶん)に入ります。昼と夜の長さが同じくらいになり、秋を分ける時となりました。庭の柿の木を見ると、ふくらんだ果実を付ける枝が、少しずつしなってきています。植物はあらゆる情報を駆使して、カレンダーよりも精確に、時を刻んでいます。植物を含む万物は、自分のアイデンティティを現すことそのものが、まるで創造された喜びのようです。

 先日、農園に行ってきました。今年の収穫はすでに終わりましたので、少しだけ除草作業をしてきました。来年の豊かな収穫を願いつつ、気長にブルーベリーの木々にかかわっていきたいと思っています。

 空(から)の器(うつわ)ということが、ふと思い浮かびました。私たちは日常の中で、自分の心、自分の体、自分の生活が、空の器ではないことが分かります。すでに自分の望むものではない何かで、すき間を埋められた心、体、生活には、本当に注がれたいものが入る余裕がなく、それが注がれたとしても、すぐにその器からあふれ出てしまうかもしれません。

 「空の器」を、「貧しい人」と言い換えてみてはどうでしょう。自分の心、自分の体、自分の生活が器であり、その器は満たされておらず、常にシンプルさを保っている状態の人。「貧しい人」は、自分の器に注がれる余裕が常にあるので、いつでもすぐにでも喜びで自分の器を満たすことができます。貧しい人に注がれる恵みは、その器をその人のアイデンティティで満たすことでしょう。そうして初めて、自分の創造された喜びを感じることができるのではないでしょうか。ですから私も、可能な限り空の器に近付いていきたいものです 。

 秋の果実を見ていると、植物は自然にすべての実を落とし、毎年、自分を空の器にしているということに気付かされ、今さらながら驚かされます。

 貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
                     (『聖書』第42巻「ルカによる福音書」6章20節)
Img_2c0201c28ad2a3e6b51c7eda2d769f98
朝日を浴びる庭木
 9月8日から、白露(はくろ)に入っています。朝の涼風に,あっという間に自然の冷風が混ざり始める季節となりました。農園のブルーベリー樹も直に(じかに)、この変化を感じ取っていることでしょう。

 私は今月から、障害のある方々や悩みを抱えた方々の、就職を支援する事業所で働かせていただいています。大変、有り難く思っています。有り難いと思う理由は、私の過去にあります。私は以前、中学校で特別支援学級の担任を務め、養護学校(現在は「特別支援学校」と言います)の中学部の学級担任を務め、そして南米パラグアイの障害者支援センターの学校で障害のある方々に授業をさせていただきました。私が障害のある方々と出会い、接した場所は、学校でした。

 私はその当時、この方々は学校を卒業したらどうなるのだろうと考えていました。私は今、その方々のその後(そのご)に接しています。自分の生き方を模索している方々の向き合う現実に、共にいて、私にできることを誠実に成していきたいと思っています。だれもが等しく生きる社会の実現を目指すことを、ノーマライゼイションと言いますが、それでは等しく生きるとは何か? 普通とは何か? 普通でないとは何か? 過去の思いに、現実が混ざり始め、それをじかに感じ取ることができる今を、ありがたく思っています。
Img_ae8f82a568aafcf04100d1d3208997a9
ブルーベリー園から見た雲
 今日は、農家誕生記念日です。私たちが果樹農家となって7年が経ちます。今年の大きな変化は、一人増えた家族全員で、農園に行くことを楽しめたことです。先日も、家族でブルーベリーの収穫に行ってきました。暑い夏でしたが、家族は自然の中でいやされました。

 「旧約聖書」によれば、畑は6年間作物を栽培したら、7年目は土地を休ませるようにと神さまが人間に言われました。キリスト教が生まれる前からあったユダヤ教の人々は、今でもそのことを守っているかもしれません。その神の御言葉(みことば)を聞いた人は、モーセという名の人です。それは紀元前1448年のことでした。

 この年、神さまから受けた約束を大切にしながら、モーセの率いるヘブライ民族は、神さまの約束された土地をめざして旅を続けます。その旅は40年間も続きました。この40年もの間、ヘブライ民族を導いたのは、「密雲」(みつうん)でした。密雲が行く方へと人々は旅を続け、約束の地へとたどり着くことができました。

 「密雲」とは、すき間なく重なった雲のことだそうです。『聖書』には、「雲の柱」という表現もあります。私は入道雲(にゅうどうぐも)を想像します。雲は、水が光を反射して白く輝きます。今でも神さまは、神さまが造られた世界の被造物を通して、私たちを導いてくださっているはずです。その導きに気付き、その導きに心を任せられたら、すばらしい人生だと思います。
Img_bc176e506213cf03f84bb78c3f58b990
庭木の木漏れ日
 今日8月23日から、処暑(しょしょ)に入ります。勢いのあった暑さも、ようやくやむころとなりました。木漏れ日もなんとなく涼しげです。海の中からゆらゆらと揺れる太陽を見る安らぎも好きですが、木の間に(このまに)揺れる日の光の心地良さも好きです。

 先日も、家族でブルーベリーの収穫に行ってきました。自然の中で、幼い我が子は生き生きとして、ブルーベリーの摘み取りをとても喜んでいました。今年の8月は雨が少なく、ブルーベリーの収穫も早く終わるかもしれません。持ち帰って選果したブルーベリーを、我が子に見せると、ぱくぱくと一気に平らげてしまいました。収穫が続くかぎり、また家族で取りに行こうと思います。

 「私は何をしているのか?」と日々の生活の中には、失われていくように感じる時間があります。ところがそれに反して、私には確かに存在する約束された時間があります。それは聖書に親しむ時間です。私たちキリスト者は、聖書を、神さまの御言葉(みことば)とも呼びます。その御言葉を読み、御言葉に学び、御言葉に生かされる時、私は絶対的な時間を感じます。とてもいやされる不思議な感覚です。言葉に言い表せないのですが、少しだけ永遠を先取りするようなことかもしれません。

 日常生活の中で、命の言葉を受け、神さまとの時間に身を置くとき、今を生きている喜びに満たされます。そのことは、神さまが私たちに直接かかわりを持ってくださっている確かな証拠だと、私は信じています。
Img_dbd747c67c8508a3830e0c43fea54bb0
農園のブルーベリー2108年
 今日8月7日から、立秋(りっしゅう)に入ります。暑い日が続いています。暑いさなかですが、夜風や早朝の風の中に、かすかな秋の気配を感じます。

 先日も、家族でブルーベリーの収穫に行ってきました。鳥害や獣害を免れ、水害や干害に耐えた果実が、ひっそりと熟していました。我が子は汗だくになりながらも、熟したブルーベリーを見つけては自分の手で摘み、その場で丸ごと食べて喜んでいました。我が子は、こちらで制止しなければ、いつまでも夢中で続けていたでしょう。この夏のいい思い出です。

 体の疲れが癒え、ようやく心に余裕が出てきたので、敷物を洗濯したり、包丁を研いだりしました。現代の生活は、いかにアウトソーシング(外注)を活用して代価を支払い、快適な生活を手に入れることができるかということに向かっていると思います。日常を見回すと、私もかなりその生活につかっていることが分かります。

 かつて南米で生活したときに、母親がたらいに水を張り、その中で子どもの服を洗濯しているのを、日常生活の中でよく見かけました。小さい子どもは楽しそうにその母親のそばにいました。とてもほほえましい光景で、今でも忘れられません。私はその時、家族と時間を共有するということがいかに大切なことであるかを学びました。

 日本に帰国して、このとても大切な失われた時間に気付くことができたのは、私の人生にとって大変な収穫でした。日本の生活では難しいかもしれませんが、私たちが見限り、手放した、二度と訪れない時間を、少しでも取り戻していきたいと思っています。