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果実がふくらむ庭の柿の木
 今日9月23日から、秋分(しゅうぶん)に入ります。昼と夜の長さが同じくらいになり、秋を分ける時となりました。庭の柿の木を見ると、ふくらんだ果実を付ける枝が、少しずつしなってきています。植物はあらゆる情報を駆使して、カレンダーよりも精確に、時を刻んでいます。植物を含む万物は、自分のアイデンティティを現すことそのものが、まるで創造された喜びのようです。

 先日、農園に行ってきました。今年の収穫はすでに終わりましたので、少しだけ除草作業をしてきました。来年の豊かな収穫を願いつつ、気長にブルーベリーの木々にかかわっていきたいと思っています。

 空(から)の器(うつわ)ということが、ふと思い浮かびました。私たちは日常の中で、自分の心、自分の体、自分の生活が、空の器ではないことが分かります。すでに自分の望むものではない何かで、すき間を埋められた心、体、生活には、本当に注がれたいものが入る余裕がなく、それが注がれたとしても、すぐにその器からあふれ出てしまうかもしれません。

 「空の器」を、「貧しい人」と言い換えてみてはどうでしょう。自分の心、自分の体、自分の生活が器であり、その器は満たされておらず、常にシンプルさを保っている状態の人。「貧しい人」は、自分の器に注がれる余裕が常にあるので、いつでもすぐにでも喜びで自分の器を満たすことができます。貧しい人に注がれる恵みは、その器をその人のアイデンティティで満たすことでしょう。そうして初めて、自分の創造された喜びを感じることができるのではないでしょうか。ですから私も、可能な限り空の器に近付いていきたいものです 。

 秋の果実を見ていると、植物は自然にすべての実を落とし、毎年、自分を空の器にしているということに気付かされ、今さらながら驚かされます。

 貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
                     (『聖書』第42巻「ルカによる福音書」6章20節)

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